審神者日誌

4年目からの審神者日誌。相模国 初期刀:蜂須賀

【刀ミュ感想】花影ゆれる砥水

忙殺されている間に本丸がリニューアルされました。
刀ミュの新作が始まったので覚書を残したいと思って久しぶりに文字を。

作業の片手間に配信を見ながらなのでとりあえずの所感。

 

観終わって最初に良いなと思った部分は、
メディアミックスの際、長谷部は信長、長義は山姥切国広のことで
メンタルが安定しない状態を描かれることが多いと感じていたけれど、
今回は二振りとも部隊の仲間の心配をしがちで、
場の空気に合わせてためらわず歌ったり踊ったりするぐらい、
冷静な判断が出来て頼れる刀剣男士の一振りという描かれ方が新鮮だったところ。

見返すと、「花」を愛でる余裕があるというのも冒頭のやりとりから示唆されていたように思う。
刀ミュでいう「花」は人。
人のために刀剣があるという言葉を最近ゲームの方でも某回想で聞いたけれど、
この長谷部はその考えにもう至っている長谷部なのかなと思った。
主が「《今年も》見事に咲きましたね」と言っているので
少なくとも1度は同じ経験をしているのだろうと伺える。
顕現したのも早そう。

今まで見てきた刀剣乱舞の長義が声を荒げる場面は
90%ぐらい山姥切国広に関してのやりとりだったと感じている。
けれど今回の刀ミュの長義はそうではなく(一緒に出陣してないから当然とはいえ)
仲間の助けに入る場面で声を荒げている。
そういう長義の姿を今までほとんど見れていなかったので、
新たな一面を見れる舞台だったなというのが最初の感想。

江水までの脚本は中心に歴史人物がいて、歴史の出来事をなぞりながら、
または歴史の解釈を上手に用いながらそこに関わっていく刀剣男士の心の掘り下げをするのが本筋だったけれど
今回の脚本はどちらかというと本阿弥光徳の刀オタクぶりを見せつけられながら、
一期一振とその影打が中心となって話が展開していく。
この切り口も新鮮で、また役者の方のアクシデントの際に起用した
(特に江水散花雪が記憶に新しい)「影」という存在が伏線であったかのように
脚本で回収したのが見事だった。

アクシデントをただのアクシデントで済ませず、それが伏線であったかのように
丁寧に脚本で保管していく作品はとても稀だと思うし、
長年シリーズを続けていられる刀ミュという作品ならではだと思う。

 

脚本に関して否定的な意見も見た。
以前の脚本と比べてわかりやすい盛り上がりがなくて冗長でつまらないという意見。
擁護でも否定でもなく、自分の中で同意する点と、そういう脚本でも
面白いと感じた部分を自分の言葉でまとめておきたい。

一番最初に刀ミュで泣いたのは三百年の子守唄。
この作品はいまだに刀ミュを勧めるならこの作品からと思うぐらい傑作だと思っている。
物が心を得て、人の成長を見守り、見送る、その過程で何を思うのか。
いわゆる『史実擬人化ジャンル』における見たいものが全て詰まっていると思う。

脚本も登場人物も好きだけれど、トラウマレベルで
エンタメとして接種するには重すぎると感じているのが静かの海のパライソ。
穏やかなシーンを緩和剤として入れてはいるけれど、
作品通して最初から最後まで刀剣男士の背負う使命の過酷さ、悲惨さ、
歴史の凄惨さ、やるせなさ、救えなさで覆われている。
観劇としてはとても素晴らしいけれどエンタメとしてはあまりにも苦しい。

今までの刀ミュのようにわかりやすい盛り上がりがなかったというのは確かに同意する。
だからといってそれがつまらなかったと感じたかというと自分は違った。

これは〈以前経験した感動と同等の感動を次回作に求める客層〉と
常に新しいものを届けたい、〈以前と全く同じものを届けるのであれば
新しいものを作る必要がないのでは〉という作り手の意識の乖離部分だと思う。
以前の源氏双騎出陣でも同様の現象が起きていて話題になったことを記憶している。

自分はどちらかというと刀ミュに毎回同じ種類の面白さを求めているわけでないので
今回の本阿弥に重点をおいて、歴史好きというより
刀好き、刀剣乱舞を通して刀に興味を持って知識がある、層に向けた脚本が
とても響いた。

特に長義が銘を切ってる時に歌う楽曲が良い。
槌の音が聞こえてる中で刀剣が歌うという構図はまさに、刀剣乱舞でないと見れない光景だ。
歌合を思い出す。
刀剣に魂が宿る瞬間に立ち会っている。

 

刀剣乱舞は日本文化とその入り口になるようにという思いを込められて展開されている
コンテンツだと感じていてる。
刀剣乱舞ミュージカルはエンターテイメントだ。
刀ミュは芸術とエンターテイメントの境目の模索を常に続けているように見える。

毎回この味付けだったらおそらく自分もつまらなくなったと感じてしまうだろう。
ただ現状のみで、今回の味付けが合わなかったのか
今の刀ミュが自分に合わないと感じたのか
決めてしまうのは勿体ないのではと感じて、その想いを残しておきたかったので文字を打っている。

これまでは歴史上の人物の歴史に残らない部分を描いてきたのに対して
今回は歴史に残らない刀の話だ。
今まで刀ミュが描きたかった物語と軸がぶれていると感じていない部分も大きい。


アーカイブを繰り返し見てて思い浮かんだことがある。
本来ならば影打を真とされても存在は揺らがないはずなのに
一期一振は揺らいでしまったという出来事、繰り返される「伽藍」という言葉、
これ刀剣乱舞の本質的な設定にすごく関わってないか?という憶測。
魂が宿ってない物=伽藍堂と歌っている一期一振は、刀という入れ物はあるものの、
記憶が焼け落ちていることで本来宿る筈の魂の形が揺らぎやすい状態なのではないだろうか。それこそ水のように形を変えてしまう。

加筆(0505)
「その名を呼べ」と影が言っているシーン。
光徳が確かに音に出して呼んでるので、顕現にも見える…。
ゲーム8面で検非違使側にも審神者がいるような書かれ方をしてたので
光徳はそういう存在になりかけたってことなのかもしれない。

今回のタイトルになっている「砥水」。
水は刀ミュの中でも繰り返し出てくるモチーフで「歴史は川の流れのようだ」と
刀剣男士は言う。
また、水は鏡のように覗き込んだものを映す。
その覗き込んだ姿は瓜二つ。これも今回の公演の中で度々繰り返される言葉だ。

「刀剣男士が歴史を守るのは使命だ」
刀剣に魂が宿って付喪神になるという過程はいい。
だがその使命はどこから来ているのだろうか。
時間遡行軍との決定的な違いはなんなのだろうか。
「影」は歴史修正主義とも刀剣男士とも違う存在に見える。そもそも「線引き」は出来るのだろうか。
そういう視点では今後の刀ミュの展開に備えている《序》にあたるような作品だったように思う。

そもそも今まで刀ミュ、刀の知識もあって当然だよね、という展開をしていた部分があるけれど、(特に歌合が顕著だと思う)銘など、刀自体にスポットをあてた作品が7年以上経ってようやく出来たという点でも今作は《序》のように感じる。

 

加筆

確かに今までの刀ミュに比べてストーリー性は弱いんだけど、
これをメッセージ性もないとして切り捨ててしまうのはなんか違うなと感じてる。
歴史に残らない人以上に歴史に残らなかった物があって、
今美術館や博物館で私たちが目に出来るものはそういう歴史に残った形あるものだけだということに思いを馳せるとかなり沼というか、スルメな公演だなと思う。